さくらんぼの実る頃
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ジャン=バティスト・クレマン(Jean-Baptiste Clément, 1836-1903)が詩を書いた「さくらんぼの実る頃」Le temps des cerises という有名な歌を取り上げ、文法の解説を試みてみます。
歌詞は 4 番まであり、いずれも 3 行目を除き 5 + 5 の 10 音節(音綴)からなる物静かな歌で、日本でもアニメの影響で比較的よく知られているようです。
⇒ 日本語訳(ページ下部)
⇒ ジャン=バティスト・クレマンの略歴(ページ下部)
⇒「さくらんぼの実る頃」とパリ・コミューン(ページ下部)
⇒「さくらんぼの実る頃」を聴けるサイト(ページ末尾)
⇒ カタカナ発音(別ページ)
Quand nous chanterons le temps des cerises
Et gai rossignol et merle moqueur
Seront tous en fête !
Les belles auront la folie en tête
Et les amoureux, du soleil au cœur !
Quand nous chanterons le temps des cerises
Sifflera bien mieux le merle moqueur !
Mais il est bien court, le temps des cerises
Où l'on s'en va, deux, cueillir en rêvant
Des pendants d'oreilles...
Cerises d'amour aux robes pareilles,
Tombant sous la feuille en gouttes de sang...
Mais il est bien court, le temps des cerises,
Pendants de corail qu'on cueille en rêvant !
Quand vous en serez au temps des cerises,
Si vous avez peur des chagrins d'amour,
Évitez les belles !
Moi qui ne crains pas les peines cruelles,
Je ne vivrai point sans souffrir un jour...
Quand vous en serez au temps des cerises,
Vous aurez aussi des peines d'amour !
J'aimerai toujours le temps des cerises :
C'est de ce temps-là que je garde au cœur
Une plaie ouverte !
Et dame Fortune, en m'étant offerte,
Ne pourra jamais fermer ma douleur...
J'aimerai toujours le temps des cerises
Et le souvenir que je garde au cœur !
- 歌詞は J. Gillequin, La chanson française du XVe au XXe siècle : avec un appendice musical, J. Gillequin, Paris, 1910, p.288 を底本としました(ただし、わかりやすいようにコンマを1つ追加、1つ削除しました)。楽譜や歌手によって細かい字句の異同がある場合がありますが、下記ジャン・リュミエールとイブ・モンタンはここに書かれた通りに歌っています。
1
Quand nous chanterons le temps des cerises
Et gai rossignol et merle moqueur
Seront tous en fête !
「Quand」は従属接続詞で「...なときに」。
文法的には、この「Quand」で始まる従属節がどこまでで、主節がどれなのかが少しわかりにくくなっていますが、正解は後回しにします。
「chanterons」は chanter(歌う)の単純未来1人称複数。
ここでは、後ろに目的語がきているので、他動詞です。
「temps」は男性名詞で「時、時期、季節、時代」。
「des」は前置詞 de と定冠詞 les の縮約形。
「cerise」は女性名詞で「さくらんぼ」。
「le temps des cerises」で「さくらんぼの季節」。実際には初夏の頃ですが、この歌の内容を踏まえると、むしろ「春」と考えたほうがぴったりきます。
- ちなみに、「桜」はフランス語では cerisier といいますが、これは cerise (さくらんぼ)から派生した単語で、「さくらんぼのなる木」といった意味あいです。しかし、日本ではさくらんぼよりも「桜」のほうが季節感があり、春になると鳥も美女たちも浮かれ出すといった 1 番の歌の内容や、2 番の「さくらんぼの季節は短い(=はかない)」といった語句を見ると、日本の感覚からするとむしろ「桜の季節」と言ったほうがしっくりきます。
何度か出てくる「le temps des cerises」という言葉は、この歌の題名にも採用されており、題名の日本語訳としては「さくらんぼの実る頃」という訳語が定着しているようですが、歌の中では逐語訳で「さくらんぼの季節」としておきます。
「gai」は形容詞で「陽気な」。
「rossignol」は男性名詞で「小夜鳴き鳥」(さよなきどり)。「夜鳴き鶯」ともいい、英語では「ナイチンゲール」。
「merle」は男性名詞で「つぐみ」または「くろうたどり(黒歌鳥)」。
「moqueur」は形容詞で「からかうような、ばかにするような」。
moquer という動詞から派生しています(「se moquer de ~」で「~をからかう、ばかにする」)。
- ちなみに、辞書で moqueur を引くと、男性名詞として耳慣れない鳥の名前が書かれています。大部の仏仏辞典 TLFi によると、これはアメリカ大陸に棲息する複数の種の「つぐみ」merles を指す言葉で、別名 merle moqueur とも言うそうです。とすると、ここに出てきた merle moqueur とぴったりだ... と思われるかもしれませんが、なぜここでアメリカ大陸に棲息する鳥の名が出てくるのか説明がつきません。ここはそうではなく、文字どおり「からかうつぐみ」と取ったほうが自然です。もともと merle の鳴き声は、からかうような、ばかにするような鳴き声に聞こえたので、moqueur(からかうような)という形容詞とセットで使われやすかったようです(日本のカラスの鳴き声が「阿呆」と聞こえることがあるのと同様)。moqueur(からかうような)のほかにも、たとえば rieur(笑うような)や siffleur(口笛を吹くような)という形容詞をつけて merle rieur(笑うようなつぐみ)、merle siffleur(口笛を吹くようなつぐみ)という表現をすることもあり、そうした一連の(つぐみに結びつきやすい)定型表現の一つだと受け取ったほうが自然です。直前に出てくる gai rossignol も、「ゲー ロッスィニョル」という種類の鳥がいるわけではないのと同様です。
「Seront」は être の単純未来3人称複数。
「tous」は「すべての人、皆」。代名詞として使われており、形容詞と区別するために s も発音し、「トゥス」と発音します。
「fête」は女性名詞で「祭」。
「en fête」で熟語で「陽気な、愉快な、うきうきした」。ここでは「浮かれ騒いだ」としておきます。
さて、この文で 2 回出てくる「et」は接続詞で「そして、と」という意味ですが、2 つのものを並列で結ぶ場合は A et B 、3 つのものを並列で結ぶ場合は A, B et C と言い、A et B et C と言うことは普通はありません。
つまり、ここは le temps des cerises et gai rossignol et merle moqueur を「さくらんぼの季節と陽気な小夜鳴き鳥とからかうつぐみ」(または「さくらんぼと陽気な小夜鳴き鳥とからかうつぐみの季節」)というように 3 つが並列だと解釈することはできません。
実は、辞書で et を引いてよく見ると、2 つのものを並列で結ぶ場合に使われる
et A et B
という表現が記載されているはずです。これで「A と B」「A も B も」という意味になります。
英語の both A and B に似た感覚ですが、このフランス語の表現は会話で使われることはなく、文章語で使われます。
要するに、Quand nous chanterons le temps des cerises(私たちがさくらんぼの季節を歌うときには)が従属節であり、et gai rossignol et merle moqueur seront tous en fête(陽気な小夜鳴き鳥とからかうつぐみは、みな浮かれ騒ぐことだろう)が主節ということになります。
- さきほど触れた「tous」は、ここでは「主語と同格」。主節の主語である gai rossignol と merle moqueur を受けて、それらが「みな」と言っているわけです。
内容的には、私たち(人間)がこの「さくらんぼの季節」の歌を歌うと、鳥たちも喜んで一緒になって歌い出す(唱和する)だろう、という意味に取れます。
6~7 行目で、もう少しわかりやすい表現を使って言いかえらています。
Les belles auront la folie en tête
Et les amoureux, du soleil au cœur !
「belle」は形容詞 beau(美しい)の女性形で、名詞化すると女性名詞「美女」。
ただし、辞書にも載っているように、単に「女性」という意味もあります。
あとで 3 番あたりをよく読むとわかりますが、この歌では女性が美しいか美しくないかで区別されているわけではなく、男性が恋する対象として「belle」という言葉が使われているので、内容的には「女性」全般を指している気がします。
とりあえず「美女」と訳しておきますが、実際には女性全般を指して、美しい言葉で呼ぶために「美女」と言っているのだと理解するのが妥当だと思います。
「auront」は avoir(持つ)の単純未来3人称複数。
「folie」は女性名詞で、本来の意味は「狂気・気違い、気違いじみたこと」。
ただし、仏仏辞典 TLFi には「古」として「愛、欲望」という意味が載っており、まさにこの歌詞が用例として引かれています。『ロワイヤル仏和中辞典』に載っている「狂おしい情熱、熱狂、熱愛」に近いともいえます。
おそらく、冷静な理性を失って頭がぼうっとした状態が「狂気」に似ているから、恋心を抱いた状態を folie と呼んだのでしょう。
ここでは「恋心」としておきます。
「amoureux」は形容詞で「恋した」ですが、名詞化して「恋人」という意味もあります。
「soleil」は男性名詞で「太陽」。
「cœur」は男性名詞で「心」。
ここは Et les amoureux auront du soleil au cœur というように「auront」を補って解釈します。前の文と構文が似ていて、et を挟んで「並列」になっており、省略してもわかるので省略されています。
「amoureux」の後ろにあるコンマは、別になくても構いませんが、ここに言葉が省略されていることをわかりやすくする意味も込めてコンマが打たれているともいえます。
「soleil」の前についている「du」は、de と le の縮約形ではありません。なぜなら、前置詞 de が出てくる理由はないからです。
たしかに amoureux de ~ で「~に恋した」という意味もありますが、それでは意味的につながりません。
この「du」は部分冠詞と取るのが適当です。
普通は、太陽 soleil は世界に一つしかなく、特定されるものなので定冠詞をつけます。しかし、「日なた」という意味の場合は、部分冠詞をつけることもあります。
「日なた」という意味ならすべて部分冠詞をつけるわけではありませんが、しかし日光が当たっている部分を「境界のはっきりしない面のようなもの」と捉える場合は、部分冠詞がつきます。
ここも、いわば「日が当たって、ぽかぽかと暖かい場所」というように、漠然とした面積をもつ広がりとして捉えているので部分冠詞がついているわけです。
ただ、こうしたことを承知の上で、訳すときは「太陽」と訳すこともできます。「太陽」にせよ「日なた、日当たり」にせよ、ここでは「暖かい感じ」つまり「幸福感」などの比喩として使われているからです。
ここまでを直訳すると、「美女たちは頭に恋心を抱くだろう、そして恋人たちは心に太陽を抱くだろう。」
いわゆる「重文」になっています。
Quand nous chanterons le temps des cerises
Sifflera bien mieux le merle moqueur !
前半(従属節)は 1 行目と同じ。
「Sifflera」は自動詞 siffler(口笛を吹く、[小鳥が] さえずる)の単純未来3人称単数。
「bien」はここでは比較級を強めており、「はるかに、ずっと」。
「mieux」は副詞 bien(よく、上手に、うまく)の比較級で「もっとよく、もっとうまく」。
この後半部分は倒置になっており、通常の語順に直すと次のようになります。
- le merle moqueur sifflera bien mieux
からかうつぐみは、はるかによくさえずるだろう
なぜこうならずに倒置になっているかというと、動詞が自動詞であるために目的語が存在せず、主語が「le merle moqueur」、動詞が「sifflera」で、動詞に比べて主語が長い(つまり頭でっかちである)からというのが一つ。
また、詩なので 2 行前の末尾の cœur と脚韻を踏ませるために moqueur を末尾にもってきたという理由もあります。さらに、体言止めの効果を狙っているともいえるかもしれません。こうした複数の理由が重なって倒置になっていると考えられます。
⇒ 1 番の日本語訳(ページ末尾)
2
Mais il est bien court, le temps des cerises
Où l'on s'en va, deux, cueillir en rêvant
Des pendants d'oreilles...
「Mais」は接続詞で「しかし」。
歌では、この後ろで「リエゾン」して Mais il を「メズィル」というように発音します。mais の後ろでリエゾンするというのは、日常ではなかなか耳にする機会がないので、聞き惚れてしまいます。
「bien」は副詞で、「本当に、大いに、とても、たしかに」という強める意味。
- ちなみに、「bien」がつくと意味が弱まることもあり、その場合は「まあ」くらいの意味になります。たとえば『ロワイヤル仏和中辞典』なら bien の丸 8 の aimer を使った例文、『ディコ仏和辞典』なら bien の丸 3 に記載されています。強めにも弱めにもなり、どちらと取るかは文脈次第というところがあって、「まあ本当に」(← bien はこういう使い方もします)あいまいですが、ここは一応強めとしておきます。
「il est bien court, le temps des cerises」は、文法的には「遊離構文」(転位)が使われており、通常の形に戻すと次のようになります。
- le temps des cerises est bien court.
さくらんぼの季節は本当に短い。
これを、この歌では「それは本当に短い、さくらんぼの季節は。」というように、先にとりあえず代名詞 il(それ)を使って文を組み立ててから、あとで「それ」が指すもの(le temps des cerises)をつけ足しているわけです。
「le temps des cerises」が文末に遊離(転位)しています。
「l'on」の l' は語調を整えるためのもので、意味はありません。
「va」は aller(行く)の現在3人称単数。
s'en aller は「立ち去る、出かける」という意味の基本的な熟語表現ですが、辞書で aller を引くと、後ろのほうに
- s'en aller + inf. 「~しに行く、~しに出かける」
という表現も載っています。
この不定詞がここでは「cueillir」(摘む)なので、「摘みに行く、摘みに出かける」となります。
その前の「deux」は、数詞の「2」ですが、ここでは「二人で、二人して」。
数詞は形容詞として使うことも多く、deux なら「二つの~」「二人の~」という意味にもなりますが、ここでは文法的には「主語と同格」で、結果として副詞のような働きをしています。たとえば seul(一つの、一人の)という形容詞が「一人で」というように副詞として使うことも多いのに似ています(「形容詞の副詞的用法」)。
「二人で」という意味でよく使う表現に tous deux (tous les deux) という熟語がありますが、これと同じ意味になります。
「rêvant」は自動詞 rêver(夢見る)の現在分詞。
en + 現在分詞でジェロンディフになっています。「en rêvant」で「夢見ながら」。
「pendant」は男性名詞で「ペンダント」。
もともと pendre(吊るす、ぶら下げる)の現在分詞が形容詞化してできた pendant(ぶら下がっている)がさらに名詞化してできた言葉です。
「oreille」は女性名詞で「耳」。
「pendants d'oreilles」で「イヤリング(耳飾り)」。左右の耳につけるので複数形で使います。
イヤリング(耳飾り)は、ここではもちろん、さくらんぼの比喩です。
さくらんぼが複数(たくさん)ぶら下がっているので、「pendants」の前には不定冠詞の複数 des がついています。
あえて「Des」を訳すなら「いくつかの、いくつもの」。
この「Des pendants d'oreilles」が前とどうつながるかというと、他動詞「cueillir」(摘む)の直接目的になっています。
「en rêvant」(夢見ながら)はカッコに入れるとわかりやすくなります。
さて、関係代名詞 où の先行詞は「le temps des cerises」(さくらんぼの季節)です。
「二人して夢見ながらいくつものイヤリングを摘みに出かける」のが「いつ」なのかというと、それは「さくらんぼの季節」である、というように、関係詞節内の事柄が「いつ」行われるのかを示す言葉が先行詞になっているので où が使われています。
Cerises d'amour aux robes pareilles,
Tombant sous la feuille en gouttes de sang...
「amour」は男性名詞で「愛」。
「Cerises d'amour」(愛のさくらんぼ)とは、詩的な表現なので説明は難しいところ。
「aux」は前置詞 à と定冠詞 les の縮約形。
前置詞 à はここでは「付属」を表し、「~のある、~を持った」。ここでは「~をまとった」。
「robe」は女性名詞で「ドレス」。またはドレスのような、上下つながったゆったりとした服を指します。
「pareil」は形容詞で「似たような」。
「似たようなドレスをまとった」というのは、要するに「いずれも艶のある真っ赤な色の」という意味でしょう。
「Tombant」は自動詞 tomber(落ちる)の現在分詞。
「sous」は前置詞で「~の下に」。
「feuille」は女性名詞で「葉」。
ここでは、内容から、落ち葉ではなく、枝についている葉のはずです(落ち葉だったら「葉の上に」となるはずです)。
「en」は前置詞で、ここでは状態を表します。
「goutte」は女性名詞で「雫(しずく、滴)」。
「sang」は男性名詞で「血」。
「gouttes de sang」で「血の雫」。
これも「さくらんぼ」の比喩です。さきほどの「イヤリング(耳飾り)」や「似たようなドレスをまとった」といった言葉からは一転して、少し不吉な表現となっており、恋の苦しみを歌った 3 番の歌詞への伏線とも取れます。
さて、「Tombant」が現在分詞なので、この「血の雫となって葉の下に落ちる」という部分は、とりあえず「分詞」として直前の名詞にかかっていると取ります。
- 分詞として前にかかる場合は、通常は直前(ここでは「pareilles」の後ろ)にコンマは入れませんが、しかしコンマの有無は厳密なものではないので、無視することが可能です。
直訳すると「血の雫となって葉の下に落ちる、似たようなドレスをまとった愛のさくらんぼ」となります。
ただ、これ全体が前後にどうつながっているかというと、どこにもつながっていません。あえて言うと、3 行目の「Des pendants d'oreille」と同格または言い換えとなっているともいえますが、この間(d'oreille の後ろ)には中断符があって、これを飛び越えて同格や言い換えと取るのは少し無理がある気もします。
むしろ、この 4~5 行目は孤立しており、詩人が言葉をつぶやきかけて、途中で文にするのを放棄してしまったような印象を受けます。
最後の「sang」の後ろの中断符がこの印象を強めています。
Mais il est bien court, le temps des cerises,
Pendants de corail qu'on cueille en rêvant !
前半は 1 行目と同じ。
「Pendant」は 3 行目でも出てきた「ペンダント」。
3 行目では「pendants d'oreilles」という形で出てきましたが、pendant だけでイヤリングという意味もあります。ここも、イヤリングかもしれませんが、イヤリングも含めたペンダント(たれ飾り)全般とも取れます。
「corail」は男性名詞で「珊瑚(さんご)」。
「Pendants de corail」で(珊瑚のペンダント)。もちろん、これも「さくらんぼ」の比喩です。
珊瑚にもいろいろな色があるのでしょうが、さきほど「血の雫」という言葉が出てきたので、そのイメージを引きずって、やや暗い赤という感じがします。
「Pendants de corail」が先行詞となって、関係代名詞 que がついています。
「cueille」は 2 行目でも出てきた他動詞 cueillir(摘む)の現在3人称単数。
cueillir は不規則動詞で、recueillir と同じ活用をします。
先行詞が他動詞の直接目的になっているので、関係代名詞 que が使われています。
「en rêvant」は 2 行目と同様、ジェロンディフで「夢見ながら」。
「qu'on cueille en rêvant」(夢見ながら摘む)が関係詞節となって(=カッコに入って)先行詞「Pendants de corail」にかかっています。
この「Pendants de corail qu'on cueille en rêvant」(夢見ながら摘む珊瑚のペンダント)が前にどうつながるかというと、これは直前の「cerises」と同格になっています。
同格の場合、典型的にはこのようにコンマを打ち、コンマの後ろの名詞が無冠詞になります。そのために、ここでは「Pendants」が無冠詞になっています。
⇒ 2 番の日本語訳(ページ末尾)
3
Quand vous en serez au temps des cerises,
Si vous avez peur des chagrins d'amour,
Évitez les belles !
「serez」は être の単純未来2人称複数。
その前の「en」は少し説明しにくいところです。
en には 3 種類の en がありますが、動詞の直前にあるので、中性代名詞の en です。
中性代名詞の en については、文法編で相当詳しく解説したつもりですが、この en はそのどれにも相当しません。
『ロワイヤル仏和中辞典』で en を引くと、一番最後に「さまざまな慣用句を作る」というのがありますが、これに該当します。
要するに、一種の熟語です。
どの辞書でも、être を引くと熟語欄に en être というのが出ており、「進度」(進み具合)を表すような表現が載っているはずです。
ここも、「季節が進んで、さくらんぼの季節になると」ということを言おうとしたもので、あまり意味がないともいえます。
事実、この en は省いても文が成り立ち、ほとんど意味は変わりません。
訳すと「さくらんぼの季節になったら」という感じになり、訳にも en は出てきません。
主語は「vous」(あなた、あなたたち)になっていますが、ここだけ見れば 1 番の歌詞のように nous を使って
Quand nous en seront au temps des cerises,
とも言うこともできます。
ただし、3 行目で「あなた(あなたたち)」に対して命令形を使い、4 行目では「あなた(たち)とは違って私は」という表現が出てくるので、「私」との違いを示すいわば伏線として「vous」が使われているといえます。
内容的には、「私」以外の男性に呼びかけているようです。
「Si」は接続詞で「もし」。
「peur」は男性名詞で「恐怖」。
ここは熟語で avoir peur de ~ で「~が怖い」。
「chagrin」は「悲しみ」。
「chagrin d'amour」で「恋の悲しみ」つまり「失恋の悲しみ」。
「Évitez」は他動詞 éviter(避ける)の(vous に対する)命令形。
「belle」は形容詞 beau(美しい)の女性形 belle がそのまま名詞化した単語で「美女」。
ここまでを直訳すると、「さくらんぼの季節になったら、もし恋の苦しみが怖いなら、美女は避けなさい」。
Moi qui ne crains pas les peines cruelles,
Je ne vivrai point sans souffrir un jour...
「Moi」は人称代名詞の強勢形。
ここでは「対比」を表し、「あなた(たち)とは違って、私は」または「あなた(たち)はどうだか知らないけれども、少なくとも私は」というニュアンスです。
「qui」は関係代名詞。
「crains」は他動詞 craindre(恐れる)の現在1人称単数。
「peine」は女性名詞で「苦痛・苦しみ、悲しみ、つらい思い」。失恋についても使います。
「cruel」は形容詞で「残酷な」ですが、「つらい、過酷な、耐えがたい」などの意味もあります。
ここまでで「(しかしあなたたちと違って)つらい苦しみを恐れない私は(といえば)」。
「vivrai」は自動詞 vivre(生きる)の単純未来1人称単数。
単純未来は、ここでは「意志」と取ります(「生きるつもりだ」)。
「ne... point」は「(まったく)...ない」。
「sans」は前置詞で「~なしに」
「souffrir」は自動詞で「苦しむ」。
「jour」は男性名詞で「日」
「un jour」で「一日」。
「un jour」には熟語で「ある日(いつか)」という意味もありますが、ここはそうは取らないでおきます。
さて、否定文で不定冠詞を使うと「一つも... ない」という強調になりますが、ここで出てきた前置詞 sans(英語の without に相当)は、もともと意味的に否定を含んでいるので、これに準じ、sans の後ろで不定冠詞を使うと強調になり、「sans souffrir un jour」で「一日も(一日たりとも)苦しむことなく」となります。
「Je ne vivrai point sans souffrir un jour」を直訳すると、「私は一日たりとも苦しまずに生きるつもりはない」。
少しわかりにくい表現ですが、二重否定になっており、裏を返せば、「毎日苦しみながら生きるつもりだ」。
内容的に見ると、1 番の歌詞で、さくらんぼの季節(春)になると鳥たちが浮かれ騒ぎ、美女たちも恋心を抱く、という言葉が出てきました。
ただ、その「恋心」というのは、「folie」という言葉が暗示しているように、どちらかというと一過性のもので、春を過ぎると心変わりしてしまうような類いのものです。そうだとすると、春に美女に恋する男性は、この季節が過ぎると恋の苦しみを味わうことになります。
こうした事情を前提に、この 3 番では、もし失恋の苦しみを味わいたくなければ、春に一時的に心が緩んだ美女に恋するのはやめなさい、と言っているわけです。
ただ、「私」は、あとで失恋してもいいから美女たちと恋をしたいと考えており、美女たちと恋ができるなら、むしろ進んで(夏以降には)失恋の苦しみを味わおう、喜んで毎日でも苦しもう、と言っているわけです。
もちろん、その代わりに、さくらんぼの季節にいい思いができるのが前提条件ですが...
要するに、「毎日苦しみながら生きるつもりだ」というのは、「毎日苦しみながら生きることになってもいいから、さくらんぼの季節になったら、進んで美女を愛するつもりだ」という意味で言っているわけです。
なお、こうしてみると「belle」(美女)と書かれてはいるものの、美しいか美しくないかは関係なく、ここではこの言葉は実質的には「女性」一般を指しているらしいことがわかります。
この歌に出てくる「美女」という言葉は、いわば「男性から見てすべての女性は美女である」という意味で、「女性」の同義語として使われているのだと理解できると思います。
Quand vous en serez au temps des cerises,
Vous aurez aussi des peines d'amour !
前半は 1 行目と同じ。
「aurez」は他動詞 avoir(持つ)の単純未来2人称複数。
「aussi」は副詞で「~もまた」。
「peine」は 4 行目で出てきました。
後半を訳すと「あなた(たち)もまた恋の苦しみを持つ(味わう)だろう」。
内容的には、「あなた(たち)」とは「私」以外の世の男性を指すと考えられますが、3 行目の「美女は避けなさい」という忠告を守って本当に美女を避けていたなら、恋の苦しみを味わうわけはありません。
つまり、「私」以外の世の男性も、「美女は避けなさい」という忠告に従わずに、実際には女性たちに恋してしまうことだろう(その結果、春を過ぎれば「私」と同様に恋の苦しみを味わうことだろう)と言っているのだと解釈できます。
⇒ 3 番の日本語訳(ページ末尾)
4
J'aimerai toujours le temps des cerises :
C'est de ce temps-là que je garde au cœur
Une plaie ouverte !
「aimerai」は他動詞 aimer(愛する)の単純未来1人称単数。
「愛するだろう」とも「愛するつもりだ」とも訳せます。
「toujours」は副詞で「ずっと」。
「C'est ~ que...」は「強調構文」。
「ce ~-là」は「あの~、その~」。
「garde」は他動詞 garder(持ち続ける)の現在1人称単数。
「cœur」は男性名詞で「心」。
「plaie」は女性名詞で「傷、傷口」。
「ouvert」は ouvrir(開く)の過去分詞 ouvert がそのまま形容詞化して「開いた」。
強調構文を使わないで書き換えると次のようになります。
- Je garde au cœur une plaie ouverte de ce temps-là !
私はその季節の(その季節について)開いた傷口を心に持ち続けている!
この「de ce temps-là」の「de」は、単に「(その季節)の」として「une plaie ouverte」(開いた傷口)にかかっているとも、「(その季節)について」という意味だとも取れます。
この「de ce temps-là」が強調されているので、強調構文らしく直訳すると、「まさにその季節の開いた傷口を、私は心に持ち続けているのだ!」または「その季節についてこそ、私は開いた傷口を心に持ち続けているのだ!」。
うまく訳しにくいところです。
「plaie ouverte」(開いた傷口)という言葉は、2 番に出てきた「gouttes de sang」(血の雫)と比喩で通じるところがあります。
Et dame Fortune, en m'étant offerte,
Ne pourra jamais fermer ma douleur...
「dame」は女性名詞で「婦人、貴婦人、奥方」。
ただし、ここでは詩語としての少し珍しい使い方で、擬人化された抽象名詞(女性名詞)と一緒に使って「~の女神」という意味です(大辞典にしか載っていません)。この使い方の場合、無冠詞にすることが多いようです。
「Fortune」は女性名詞で「運命、幸運」。
「dame Fortune」で「運命の女神」または「幸運の女神」となります。
「en」は後ろに現在分詞があるのでジェロンディフ。
「offerte」は他動詞 offrir(差し出す、与える。ouvrir と同じ活用をする不規則動詞)の過去分詞 offert に女性単数を示す e がついた形(「dame Fortune」に一致)。
ジェロンディフは現在分詞を使った分詞構文と同じ意味になりますが、ここでは分詞構文の各種の意味の中で「仮定」(プラス「譲歩」)を表します。つまり、「en m'étant offerte」は次のように言い換え可能です。
- si elle m'était offerte
もし(たとえ)彼女(=幸運の女神)が私に差し出されたとしても
このように言い換える場合、内容的には非現実の仮定(現在の事実に反する仮定)なので si + 直説法半過去を使います(「était」は être の直説法半過去)。
「pourra」は pouvoir(~できる)の単純未来3人称単数。
「ne... jamais」は「決して...ない」。
「fermer」は他動詞で「閉じる」。
「douleur」は男性名詞で「苦痛、苦しみ、つらさ」。
さきほどのジェロンディフの部分は、内容的には非現実の仮定(現在の事実に反する仮定)なので、主節は条件法現在を使うのが定石です。そのため、通常なら pouvoir の条件法現在3人称単数 pourrait を使って、
- Ne pourrait jamais fermer ma douleur
決して私の苦痛を閉じることはできないだろう
となるべきところですが、ここは単純未来が使われています。
このように、きっぱりと断定口調で話者の意志を強く示したい場合は、「意志」を表す直説法単純未来を使うことができます(Cf. 朝倉 p.493 左)。
「苦痛を閉じる」という表現は少し変わっていますが、さきほど「開いた傷口」という表現が出てきたので、その比喩の延長として、あまり違和感を感じることなく「苦痛を癒やす」という意味だとわかります。
J'aimerai toujours le temps des cerises
Et le souvenir que je garde au cœur !
前半は 1 行目と同じ。
「souvenir」は男性名詞で「思い出、記憶」。
語源的には、sous(下から)+venir(やって来る)なので、いかにも「思い出、記憶」という感じがする言葉です。
「que」は関係代名詞。
「je garde au cœur」は 2 行目と同じ。
日本語訳
以上の文法的説明を踏まえた上で、もとの詩の語順を考慮し、少しだけ意訳すると、次のようになります。
私たちがさくらんぼの季節を歌うと
陽気な小夜鳴き鳥も からかうつぐみも
みな 浮かれ騒ぐことだろう。
美女たちは恋心を抱き
恋人たちは心に太陽を抱くことだろう。
私たちがさくらんぼの季節を歌うと
からかうつぐみが もっとよく さえずることだろう。
しかし本当に短いのだ、さくらんぼの季節は。
夢見ながら二人して いくつもの耳飾りを
摘みに出かける季節は……。
似たようなドレスをまとった恋のさくらんぼが
血の雫となって葉の下に落ちる……。
しかし本当に短いのだ、さくらんぼの季節は。
夢見ながら摘みとる珊瑚のペンダント。
さくらんぼの季節になったら
もし恋の苦しみが怖いなら
美女は避けなさい。
私はといえば、つらい苦悩を恐れず、
毎日苦しみながら生きるつもりだ……。
さくらんぼの季節になったら
あなたたちもまた恋の苦悩を味わうことだろう。
私はずっと愛するだろう、さくらんぼの季節を。
私が心に持ち続けるのは、この季節にできた
開いた傷口。
たとえ幸運の女神が私に差し出されたとしても
決して私の苦しみを閉じることはできないだろう……。
私はずっと愛するだろう、さくらんぼの季節を。
そして心に持ち続ける記憶を。
ジャン=バティスト・クレマンの略歴
「さくらんぼの実る頃」の作詞者ジャン=バティスト・クレマン(Jean-Baptiste Clément)の略歴を記しておきます。
ジャン=バティスト・クレマンは、1837 年、製粉業を営む裕福な家庭の子としてパリのブーローニュの森の近くで生まれました。
しかし、わずか 14 才にして家族と縁を切り、銅製品の内装職人として身を立て、さまざまな職を転々とします。パリのモンマルトルに住み、社会主義者ジュール・ヴァレスの新聞「人民の叫び」のジャーナリストたちと交わり、ナポレオン 3 世の第二帝政(1852~1870 年)下で過激な共和主義者として政治権力を批判したために、ベルギーに亡命を余儀なくされます。このとき、亡命先のベルギーで 1866 年冬から翌 1867 年春にかけて「さくらんぼの実る頃」は書かれました。
ついでパリに戻りますが、反政府的な新聞に協力し、1869 年に投獄されます。
1870 年、普仏戦争でフランスが敗れ、ナポレオン 3 世が捕虜となったという知らせを受けると、パリの民衆は同年 9 月 4 日に蜂起して「パリ・コミューン」を樹立します。同じ日、クレマンは牢獄から釈放されてパリ・コミューンの自治政府に加わり、モンマルトル区長に任ぜられます。
翌 1871 年 5 月 21~28 日のいわゆる「血の一週間」(=パリ・コミューンを弾圧しようとするヴェルサイユ政府軍との激しい戦闘)では、クレマンは最後までバリケードで戦います。
結局、民衆は鎮圧されて「パリ・コミューン」は崩壊しますが、クレマンは社会主義的な思想を枉げず、ロンドンに亡命します。死刑を宣告され、のちに恩赦を受けてパリに戻り、1890 年に「革命的社会主義労働党」の結成に参加します。1903 年にパリで亡くなっています。
今でもパリ近郊には「ジャン=バティスト・クレマン通り」という名の通りが数箇所にあります。
「さくらんぼの実る頃」とパリ・コミューン
1885 年に出版した自分のシャンソンを集めた本の中で、ジャン=バティスト・クレマンは上記「血の一週間」で一緒に戦ったルイーズという名の娘にこの歌を捧げています。そのこともあって、この歌はパリ・コミューンの記憶と結びつけられることがあります。とくに、歌詞に含まれる「血の雫」や「開いた傷口」といった言葉が血なまぐさい戦いを連想させ、さらには偶然にも「血の一週間」が 5 月下旬という「さくらんぼの季節」に起こった出来事であったために、パリ・コミューンの挫折を歌った歌だと解釈したくなる余地が大いにあります。
しかし、この歌は全曲パリ・コミューン以前の 1866~1867 年に作られた歌なので、本来はパリ・コミューンとは一切関係なく、純粋な失恋の歌として書かれたというべきです。
- 4 番の歌詞はパリ・コミューンの最中(またはパリ・コミューン後)に追加されたものだという「伝説」がまことしやかに語られることがありますが、事実無根の俗説です(Cf. La Commune de 1871, Colloque de Paris (mai 1971), Les Éditions ouvrières, Paris, 1972, p.321)。
「さくらんぼの実る頃」を聴けるサイト
YouTube で検索するといろいろ聴けます(冒頭に動画広告が出た場合は F5 キーを押すとスキップ可能)。
- https://www.youtube.com/watch?v=9OS6qCzBLiw
Charles Trenet
- https://www.youtube.com/watch?v=RCKMYEEpm_s
Jean Lumière, 1947
- https://www.youtube.com/watch?v=-9aQNv5nraA
Cora Vaucaire
- https://www.youtube.com/watch?v=ncs4WlWfIZo
Yves Montand, 1955.
この端正なイブ・モンタンの歌は、発音も完璧で、個人的にはこれが一つの模範だと感じています。
美女に恋するという内容が 3 番の歌詞に含まれているので、本来はこのように男が歌ったほうがサマになる気がします。
あえて短所を挙げるとすれば、こればかり聴いてると 5 + 5 の 10 音節の詩でありがちとされる「退屈さ」が感じられてくることでしょうか。その場合は、以下の歌手による歌を聞くと、また新鮮で血が通ったように感じられます。
- https://www.youtube.com/watch?v=bDK8yVPF--U
Nana Mouskouri, 1967.
3 番を省略して歌っています。
- https://www.youtube.com/watch?v=jNojUzsBbME
Les Motivés, 1997
南仏トゥールーズ出身のロック・レゲエなどを歌うグループのようです。2 番を省略して歌っています。
- https://www.youtube.com/watch?v=B8VQnDxY8Yw
Bobbejaan Schoepen & Geike Arnaert, 2008
ベルギーのボブヤン・シューペン(当時83才)とベルギーのゲイケ・アルナエルによるデュエット。
- https://www.youtube.com/watch?v=Pg3qH71QF9Q
Geike Arnaert, 2010
85才で死んだボブヤン・シューペンの葬式で、柩を前にしてゲイケ・アルナエルが歌っています。
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