「北鎌フランス語講座 - 文法編」と連動し、短い例文を使って徹底的に文法を説明し、構文把握力・読解力の向上を目指します。

ラ・マルセイエーズの歴史

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La marseillaise(ラ・マルセイエーズ)は la chanson marseillaise(マルセイユの歌)という意味ですが(※)、こう呼ばれるまでには紆余曲折があります。

  • (※)chanson(歌)の略。ただし、より正確には、おそらく l'hymne marseillaise (マルセイユの歌)の l'hymne(歌、讃歌・頌歌・国家。当時は女性名詞として使われた)の略 (Cf. Éman Martin (1925), p.30)。

このページでは、フランス革命の歴史と関連させながら、最初は「ライン軍のための軍歌」と題されていた「ラ・マルセイエーズ」の歴史を 3 つの時期にわけて年表風にまとめてみました。

   1.「ライン軍のための軍歌」の誕生(ストラスブール)
   2.「ラ・マルセイエーズ」に名前が変化(マルセイユ→パリ)
   3. フランス革命以降



1.「ライン軍のための軍歌」の誕生(ストラスブール)

1789年7月14日
バスティーユ襲撃でフランス革命が始まる。

  • フランス革命はフランス以外の国の専制君主にとっても脅威であり、当時のヨーロッパ諸国の専制君主は姻戚関係で結ばれていた(たとえばルイ16世の王妃マリー・アントワネットの兄は神聖ローマ皇帝レオポルト2世だった)こともあって、「フランスの民衆」対「フランス王を含む各国の専制君主」という対立の構図ができつつあった。
    なお、強硬派と穏健派の意見の相違などから、フランス革命はしばらく膠着状態にあった。

1791年6月20日
ルイ16世と王妃マリー・アントワネットは、アントワネットの兄の神聖ローマ皇帝レオポルト2世を頼ってフランスから逃れようとするが、ヴァレンヌで捕まってしまう(ヴァレンヌ逃亡事件)。
この事件は民衆の国王に対する心情を悪化させ、フランス革命の進展に大きな影響を及ぼした。

1791年8月27日
神聖ローマ皇帝レオポルト2世とプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世が「ピルニッツ宣言」(=フランス国王を助けるためには躊躇なく武力行使を行うという趣旨の宣言)を行う。
これがフランスの民衆を刺激し、好戦的な雰囲気が強まる。

1791年12月14日
フランス軍の再編が行われ、中央軍、北部軍、ライン軍 l'Armée du Rhin の 3 つにまとめられる。
中央軍はラ・ファイエット将軍、北部軍はロシャンボー元帥、ライン軍はリュクネール元帥 Maréchal Luckner(後出)が指揮した。

1792年4月20日
フランスがオーストリア(神聖ローマ帝国)に宣戦布告をする。

  • これは、ルイ16世が自分に向けられていた批判をかわす意図もあって、オーストリアとの戦争を議会に提案したことを受けて行われた。

ここにフランス革命戦争(=フランス革命に干渉しようとする外国とフランス革命軍との戦争)が始まる。

1792年4月25日
宣戦布告の 5 日後、ドイツと国境を接するライン川沿いの街ストラスブールの市長フィリップ=フレデリック・ド・ディートリッヒ男爵 baron Philippe-Frédéric de Dietrich の求めに応じ、工兵大尉ルージェ・ド・リール Rouget de Lisle が「ライン軍のための軍歌」Chant de guerre pour l'armée du Rhin を作詞・作曲し、この歌をライン軍司令官リュクネール元帥に捧げる。

  • ディートリッヒ市長は、ストラスブールに駐留するフランス軍の将校をたびたびサロンに招いており、特に前年からストラスブールに来ていたルージェ・ド・リール大尉とはフリーメイソン仲間でもあった。
    音楽好きだった市長に依頼され、詩文と音楽の才能に恵まれたルージェ・ド・リールはこの他にも愛国的な歌をいくつか作っている。

1792年4月26日
翌日、ディートリッヒ市長のサロンにおいて、「ライン軍のための軍歌」が初めて演奏される。
テノール歌手でもあった市長が自ら歌を歌い、市長の妻がクラヴサンを演奏した。

ラ・マルセイエーズ

イジドール・ピルス画「ラ・マルセイエーズを歌うルージェ・ド・リール」
(1849年、ストラスブール歴史美術館蔵, Wikimedia Commons)

この絵は、半世紀以上経ってから想像で描かれたもの。この絵で大きく右手を上げて歌っているのは、剣を左腰に下げているのでわかるように、ルージェ・ド・リール。その隣でかつらをかぶり、椅子にすわって見上げているのが市長のディートリッヒ男爵だと思われる。
しかし、実際にはディートリッヒ男爵が歌ったことが記録に残されているので、この絵は史実とは異なっていることが指摘されている。
もとはルーヴル美術館の所蔵だったが、ストラスブール歴史美術館蔵に譲られた。



それから約 2 か月後、舞台は南仏に移り...

2.「ラ・マルセイエーズ」に名前が変化(マルセイユ→パリ)

1792年6月22日
南仏モンペリエで「憲法友の会」le club des Amis de la Constitution の熱心な参加者だった准将フランソワ・ミルール François Mireur(1770-1798)は、義勇兵を組織するために前日にマルセイユに来ていたが、この日、「ライン軍のための軍歌」をマルセイユで初めて歌う

これが非常に評判を呼び、歌詞が印刷されて配られ、マルセイユ義勇兵はこの歌を歌いながらパリまで行進した。

ラ・マルセイエーズ

1792年に出た楽譜の挿絵。
(Marche des Marseillois chantée sur diferans theatres,
Londres, W. Holland, 1792, Gallica)

「マルセイユ行進曲」Marche des Marseillois と書かれている(Marseillois は Marseillais の古い綴り)

1792年7月29日
この歌を歌いながらマルセイユ義勇兵がパリに到着する。強い南仏なまりで歌われるのを聞いたパリの民衆はマルセイユの歌だと思い込み、「ラ・マルセイエーズ」と名づけた

  • このマルセイユ義勇兵(連盟兵)が中心となって 8月10日に「テュイルリー宮殿襲撃」が行われ、ルイ16世とマリー・アントワネットは捕らえられ幽閉された。



ラ・マルセイエーズ

フランソワ・リュード作「1792年の義勇兵の出発」(別名「ラ・マルセイエーズ」)
(Le Départ des volontaires de 1792,
aussi appelé La Marseillaise par François Rude, Wikimedia Commons)

パリの凱旋門に彫られた彫刻「1792年の義勇兵の出発」。通称「ラ・マルセイエーズ」または「リュードのラ・マルセイエーズ」 La Marseillaise de Rude(リュードは彫刻家の名前)。フランス革命のマルセイユ義勇兵を描いたものだが、写実的ではなく、全員古代の格好をしている。義勇兵たちの上に彫られているのは、自由の女神とも勝利の女神とも解釈できる。自由の女神と解釈できるのは、たとえばドラクロワの「民衆を導く自由の女神」等と同様、伝統的に自由の女神のシンボルとされてきた「フリジア帽」をかぶっているため。同時に、勝利の女神とも解釈できるのは、たとえばギリシア神話の勝利の女神ニーケーを表現した「サモトラケのニケ」(ルーヴル美術館蔵)と同様、勝利の女神は翼が生えているとイメージされきたため。リュードは 1833 年にこの凱旋門の彫刻を依頼され、1836 年に完成しているが、おそらく自由の女神と勝利の女神が登場するラ・マルセイエーズの 6 番の歌詞を意識しながらこの彫刻に取り組んだはずである。

  • 参考:モーリス・アギュロン著『フランス共和国の肖像-闘うマリアンヌ 1789~1880』、阿河雄二郎他訳、ミネルヴァ書房、1989年  ⇒ Amazon
    この本はフランスを象徴する女性像「マリアンヌ」や自由の女神について書かれた本なので、その一環としてこの凱旋門の彫刻も自由の女神として取り上げられているが (p57)、注では「被り物はフリジア帽だが、その上に鷲がとまっている」といった「両義的なシンボル」が混在しており、一義的に自由の女神とはいえないことが示唆されている。他方、フランス文化・コミュニケーション省のサイトでは「勝利の女神であることが翼によってわかる」と書かれている。



1792年 ? 月
「ラ・マルセイエーズ」の 7 番の歌詞が作られる(作者不明)。
ルージェ・ド・リールは 6 番までしか作っておらず、7 番の歌詞の作者は諸説ある。

  • 一説によると、修辞学の教師だったアントワヌ・ペソノー Antoine Pessonneaux 神父が若者のための歌詞がないのを残念に思って 7 番の歌詞を作り、1792年7月14日に生徒に歌わせたのが始まりだという。
    他の説によると、1792年10月に作曲家フランソワ=ジョセフ・ゴセック François-Joseph Gossec がオペラ座での公演の際に追加したという。
    他にもいくつか説がある。

1793~1794年
恐怖政治。この期間には、以上に記した多くの人々がギロチンで処刑された。

  • 1793年1月21日にはルイ16世。
  • 1793年10月16日には王妃マリー・アントワネット。
  • 1793年12月29日には「ラ・マルセイエーズ」を依頼したストラスブール市長ディートリッヒ男爵。
  • 1794年1月4日には「ラ・マルセイエーズ」が捧げられたライン軍司令官リュクネール元帥。

    ちなみに、ルージェ・ド・リールはギロチンを免れ、長生きした。
    アントワヌ・ペソノー神父も、裁判にかけられながらも「ラ・マルセイエーズ」の7番の作者だと主張したために何とかギロチンを免れたという。

1795年7月14日
フランス革命勃発 6 周年にあたる日、国民公会において「ラ・マルセイエーズ」が国歌に制定される。



3. フランス革命以降

1804~1814年
ナポレオンの第一帝政では「ラ・マルセイエーズ」は禁止される。

1814~1830年
王政復古でも禁止される。

1830年
七月革命を経て解禁される。これを受け、ベルリオーズが「ラ・マルセイエーズ」をオーケストラ向けに編曲する(これは現在にいたるまで演奏されている)。

1848年
二月革命。再び「ラ・マルセイエーズ」が脚光を浴び、画家イジドール・ピルス Isidore Pils が「ラ・マルセイエーズを歌うルージェ・ド・リール」(前掲の絵)を描き、これは翌 1849 年に完成する。

1871年
第三共和政樹立。当初、政府は「ラ・マルセイエーズ」は革命的すぎるために他の歌を作って国歌にしようと模索していた。

1879年2月14日
しかし、そうした動きに反対する議員らの後押しにより、「ラ・マルセイエーズ」は再び国歌に制定される。

1882年
ルージェ・ド・リールの生まれ故郷である、スイスの隣にあるフランシュ=コンテ地方ジュラ県ロン=ル=ソニエ(またはロンス=ル=ソニエと発音)Lons-le-Saunier にルージェ・ド・リールの彫像が建てられる。
彫像の作者は、かの有名なニューヨークの自由の女神像を作ったことで知られる、オーギュスト・バルトルディ Auguste Bartholdi。

ルージェ・ド・リール

ロン=ル=ソニエのルージェ・ド・リールの彫像(バルトルディ作)
(観光絵葉書の一部を拡大したもの。筆者蔵)

右手を大きく上げているのは、前掲のイジドール・ピルスの絵のポーズを踏まえたもの。左手に握っているのは、フランス国旗の柄の部分で、国旗が体の後ろではためいている。

1911年
ラ・マルセイエーズを学校で教えることが義務づけられる。

1914~1918年
第一次世界大戦では国威発揚のために「ラ・マルセイエーズ」が大いに歌われた。

1915年7月14日
第一次世界大戦勃発後の最初の革命記念日にあたるこの日、ルージェ・ド・リール(1836 年にパリ郊外ショワズィ=ル=ロワ Choisy-le-Roi で 76 才で死去)が国歌ラ・マルセイエーズの作者として英雄扱いされ、遺灰がナポレオンなどの眠るオテル・デ・ザンヴァリッド(廃兵院)に移される。

ルージェ・ド・リール

ルージェ・ド・リールの遺灰を移す行列を写した当時の写真
(フランス国立図書館蔵 Gallica

軍人を中心とした多くの人々が壮麗な行列を組み、ルージェ・ド・リールの遺灰をパリ郊外ショワズィ=ル=ロワからオテル・デ・ザンヴァリッドに移すときの様子を写した一連の写真が残されている。この写真は、凱旋門の前、ちょうどリュード作「1792年の義勇兵の出発」の彫刻(前掲)が見える場所で撮影されたもの。
左手前の旗をたくさん飾った馬車に遺灰が収められている。



1936年6月27日
ルージェ・ド・リール没後100年を記念し、2 枚の切手が発行される。

ルージェ・ド・リール

義勇兵の出発

 ルージェ・ド・リール没後100年を
 記念した2枚セットの切手
(筆者蔵)

左の切手は前掲のバルトルディ作の彫像、右の切手は凱旋門に彫られたリュード作「1792年の義勇兵の出発」(別名ラ・マルセイエーズ)の上半分(勝利の女神)をもとに描かれた絵。「RF」は République Française(フランス共和国)の略。
この 2 枚の切手を見ると、ラ・マルセイエーズがフランスでどのように視覚的にイメージされているのかがわかる。
偶然かもしれないが、ルージェ・ド・リールは右手、勝利の女神は左手を大きく上げているのが面白いところ。そういえば、バルトルディ作のニューヨークの自由の女神像も、松明を持った右手を高く上げている。手を上げると、力強い動きが表現され、迫力が出るようだ。



1940年
第二次世界大戦でヴィシー政権樹立。ドイツ占領下では「ラ・マルセイエーズ」を歌うことは禁止された。
ただし、人心掌握・懐柔のため、またレジスタンス側の歌となるのを防ぐために、わざと政府関係者のいる場所などでは許可され、歌われた。

1946~1958年
第四共和政では国歌に定められている。

1958年~
第五共和政でも国歌に定められている。
現行のフランス共和国憲法第2条は、短い箇条書きで次のように書かれている。

  • 共和国の言語はフランス語である。
    国家の標識となるのは青、白、赤の三色旗である。
    国歌は「ラ・マルセイエーズ」である。 (L'hymne national est la "Marseillaise".)
    共和国のモットーは「自由、平等、博愛」である。
    その原則は「人民の人民による人民のための政治」である。

   ⇒ フランスの憲法の原文(Legifrance)











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